叶えようともしない憧れをなんと表現すべきか(フェラーリF40)

「勃った?」

その問いかけに我に帰ると、彼女が笑って私を見つめていた。

とある車に心奪われた私に投げかけられた言葉である。

 

10年以上前、聖蹟桜ヶ丘の道路沿いのカフェ、これが私とフェラーリF40の初めて出会いだった。

Ferrari F40 (1987) - Ferrari.com

フェラーリ公式のF40の紹介ページ

車に興味がない人も写真だけでも良いからご覧いただきたい。
 

 

公道に面したカフェの席で、信号待ちのためにF40が目の前に停車した。

まるでレーシングカーのような形状をした真っ赤な車体は、その他の乗用車とは全く異なる、まるで生き物のような異様かつ圧倒的な存在感を発していた。

美的感覚からくる「美しい」ではなく、速く走るという目的で設計されたであろう機能美を感じた。

 

一眼見て、そのまま彼女との会話なんて忘れるほどに見惚れていたのだと思う。

他の女性に釘付けになっていたら怒るところだろうが、相手が車となると彼女も笑うしかない、といったところか。

「勃った?」と聞いたのは嫉妬心からなのだろうか。今となってはもう、本人に確かめる術はない。

 

そのまま信号が青になり発車していったが、見えなくなるまで眺めていた。

乗ってもいない車に対してこれほどに魅了された経験は、後にも先にもこれ以外ない。

 

再会

伊香保にある伊香保おもちゃと人形自動車博物館で、F40が展示されていた。

ガラス越しの再会。

しかしながら、展示されている姿からはあの時強烈に惹きつけられた魅力は感じなかった。

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その数年後、宮ヶ瀬のワインディングですれ違ったこともある。

一瞬だったが、途端に道幅が狭くなったかと勘違いするほど、視界の大半をF40が占めていた。

速く走ることを使命に生まれた車は、走ることで特別なオーラを発するのかもしれない。

 

憧れるのはやめましょう

はたしてこの気持ちは憧れというべきなのか。

 

F40は希少な車種であり資産価値としても高騰していることから、今の自分の生活でF40を所有する、又は運転する機会に巡り合う手段など到底思い付かない。

 

それに漫画「カウンタック」のように格安で手に入るような出来事が万が一起こったとしても、自分は断ってしまうんじゃないかと思う。

自分の手で綺麗な状態を維持し続けられるのか、貴重な車を下手な運転で壊してしまうのではないか、なんてことを考えて機会を手放すことすら自分ならあり得る。

 

真面目だなって笑うかもしれないけど、単に臆病なだけだ。

自分なんかが触れて良いものかなのか。

そもそも所有するに相応しい者になれていない、そしてなろうと努力をしなかった自分が、そんな貴重な車について語り、乗ることを憧れて良いものなのか。なんて女々しいことすら考えてしまう。

叶える気がないなら憧れなんて言葉は容易く使うべきではないかもしれない。

 

憧れと諦めが同居しているこの感情は一体なんと表現すべきなのだろうか。

時は戻らない。俺の人生はこのまま進んでいく。

後悔とも言えない感情と共に加齢していく。